2026年10月09日配信
前回は、同一市区町村の中に全く同じ町名が存在する「重複町名」を取り上げ、政令指定都市への移行やコミュニティの維持といった歴史・行政の変遷から生まれた様々な事例と、その地図表現の工夫について解説しました。
今回は、前編でも触れたもう一方の事象である自治体の境界を挟んで隣り合う「同一町名」に迫ります。場所を特定するための仕組みでありながら、なぜ隣り合う自治体同士で同じ町名が並ぶことになったのでしょうか。その背景には、河川の改修にともなう流路の変化や、歴史的な境界線の変遷、市町村合併などが深く関係しています。今回は、この「同一町名」が誕生した背景や経緯、地図上での表現の工夫について詳しく解説します。
埼玉県行田市と鴻巣市の境界線を挟んで、同じ地名である「下忍(しもおし)」が隣接しています。行田市は、以前は「忍町(おしまち)」と呼ばれていました。かつて豊臣秀吉の小田原攻めの際、石田三成の水攻めにも耐え抜いた難攻不落の名城・忍城の城下町として栄えた場所です。明治時代以降、商人の町として発展した忍町は、1949年(昭和24年)の市制施行に伴い現在の「行田市」となりました。
この忍城から見て、南に離れた場所に位置するのが「下忍」です。その昔、この地には下忍村が存在しており、現在の行田市と鴻巣市に跨る広大なエリアに一つの村を形成していました。
なぜ、下忍村が二つの自治体に跨ることになったのでしょうか。実は下忍村では、昭和時代に市町村合併が検討されましたが、当時の行田市と吹上町のどちらと合併するかで意見が分かれ、その議論は混迷を極めることになりました。最終的には、下忍村は「分村合併(分割合併)」の形をとり、それぞれの自治体に「下忍」が誕生しました。その後、吹上町は市町村合併により鴻巣市となり、行田市と鴻巣市の境界線を境に、隣接する「同一町名」となりました。現在でも、現地には「下忍上分」というバスの停留所が残されているほか、古地図にみられる「下忍下分」といった表記や地名など、当時の名残をとどめています。
マップルでは、「町名」のほか「市町村の境界線」や「町域の色分け」といった地図表現を用いて表記しています。
こちらは隣接する複数の自治体に存在する同一町名のケースです。
兵庫県たつの市、上郡町、佐用町に跨る丘陵地に位置する播磨科学公園都市。大型放射光施設「SPring-8」などの最先端研究施設が集積するこの地は、「ひかりのまち」「科学のまち」とも呼ばれています。
このエリアには自治体の境界を越えて「光都(こうと)」という町名が設定されています。上郡町が「光都一・二・三丁目」、佐用町が「光都一丁目」です。都市のコンセプトである「人と自然と科学が調和する高次元機能都市」が町名の由来とされています。
実は、たつの市にも「新宮町光都一・二・三丁目」が設定されています。市町村の合併によって、たつの市が誕生する際、旧新宮町の区域については大字の頭に旧町名を冠することになったため、現在の形になりましたが 、もし合併がなければ、隣接する三つの自治体にまったく同じ町名が並ぶことになっていました。 「光都」は、播磨科学公園都市の誕生を機に、自治体の枠を越えた地域の一体化を目指して生まれた、極めて珍しい事例と言えそうです。
マップルでは、これまでの行政区の事例と同様に、「市町村の境界線」のほか、それぞれの「町域に異なる色」を設定し、地図を見た時にそれぞれを混同しないよう工夫しています。
茨城県と千葉県の県境を流れる利根川。茨城県境町、坂東市、千葉県野田市にかけての両岸には、新田戸(にったど)、桐ケ作(きりがさく)、古布内(こぶうち)といった、県境を跨いだ「同一町名」が並んでいます。このような状態になったのには、江戸時代に行われた一大土木事業が深く関係しています。
かつて利根川は東京湾へと注いでいましたが、水害から江戸を守るため、流路を東へ曲げて太平洋へと注がせる大規模な治水事業が始まります。これが「利根川東遷(とうせん)」です。この事業は、周辺の新田開発や舟運の開通など江戸の街に多くの恩恵をもたらした一方で、新しく掘られた河道によって、それまで地続きだった多くの土地や村を分断することになりました。新田戸・桐ケ作・古布内も、この事業によって利根川に隔てられた集落でした。分断後、人々は両岸を繋ぐ「渡し船」で行き来を続けることになり、この往来は昭和時代に橋が架かるまで続きました。
新田戸・桐ケ作・古布内が県境を挟んで隣接する「同一町名」になったのは、1899年(明治32年)のことになります。利根川が正式な県境として定められたことにより、茨城県と千葉県を挟んで隣接する「同一町名」が誕生しました。
マップルの地図では、これまでの事例と同様に、「町名」のほか「県の境界線」や「町域の色分け」を用いて表記しています。間に広大な利根川が流れているため一見すると隣接しているイメージは湧きにくいものの、境界線と色分けによって、両者を混同することなく識別できるようになっています。
埼玉県と千葉県の県境を流れる江戸川。ここには、県境を挟んで「同一町名」の「深井新田」があります。こちらも江戸時代に行われた「利根川の東遷」と深い関係があります。利根川の河道(かどう)を変えるのと合わせて、江戸川の新しい流れもこの一連の工事によって誕生しました。深井新田は、古くは太日川(ふといがわ)と呼ばれていた江戸川の沿岸にあり、早い時期から新田が開発された一つの村でした。
この村を大きく変えたのが江戸川の河川改修です。江戸川が作られた後も、流路の直線化や川幅を広げる工事が続けられており、なかでも享保年間に行われた河川改修によって、江戸川の流路が深井新田の中央を突き抜ける形になりました。これにより、村は江戸川の「西側」と「東側」に分断されてしまいます。この分断の歴史を現在に伝える象徴が、両岸に残る「六社神社」です。もともとは一つの鎮守社(ちんじゅしゃ)でしたが、川によって村が分断されたため、両岸の住民がそれぞれお参りできるよう祭神を分け、東西の両岸に「六社神社」を祀るようになりました。
そして、現在のように県境を挟んで隣接する「同一町名」となったきっかけが、明治時代に行われた県境の変更です。江戸川の西側が埼玉県に、東側が千葉県へと編入され、それぞれの地域が大字(おおあざ)として残ったため、県境を跨ぐ「同一町名」が誕生しました。
マップルでは、事例1の新田戸、桐ケ作、古布内と同様に、「町名」のほか「県の境界線」や「町域の色分け」を用いて、これらを分かりやすく表記しています。間に江戸川が流れてはいるものの、こうした表現によって、両者を混同することなく識別できるようになっています。
最後に紹介する「二本木(にほんぎ)」は、埼玉県入間市と東京都瑞穂町に跨る「同一町名」です。これまでの川で隔てられた事例とは異なり、地続きとなっているのが大きな特徴です。古い文献によると、かつてこの地にあった2本の榎(えのき)の大木が「二本木村」という地名の由来になりました。江戸時代に「日光街道(千人同心街道)」が整備されると、交通の要所として「二本木宿」という宿場町が形成され、人や寺院が集まり大きく発展していきました。
この地域が都県境を挟むきっかけとなったのが、明治から昭和時代にかけての市町村合併です。1895年(明治28年)、二本木村を含む周辺の村が合併して埼玉県入間郡「元狭山村(もとさやまむら)」が誕生し、二本木はその大字(おおあざ)となります。
転機となったのは、昭和の大合併期の1958年(昭和33年)です。元狭山村は、地域を切り分けて別の自治体に編入する「分村合併」を選択しました。その結果、元狭山村の南側は「東京都瑞穂町」と合併し、残る北側は「埼玉県武蔵町(現在の入間市)」へ編入されることになります。この珍しい「越境合併」により、かつての二本木村のエリアも南北に分断され、南側は「東京都瑞穂町二本木」、北側は「埼玉県入間市二本木」となりました。
こうして、都県境を越えて隣接する地続きの「同一町名」が誕生しました。現在も瑞穂町内には「元狭山」を冠する施設や神社が点在し、合併した当時の名残を留めています。マップルでは、他の事例と同様に、「町名」のほか「都府県の境界線」や「町域の色分け」を用いて分かりやすく表記しています。
今回、紹介した事例のように、市区町村や都府県を跨いで存在する「同一町名」の背景には、過去の大規模な河川改修や自治体の分村合併といった、地理的・歴史的な様々な要因が挙げられます。隣接する同一町名は、一見すると混同しやすく、位置関係の把握や判別に迷いが生じやすいですが、マップルの地図では、両者が混同しないよう、「境界線」や「町域の色分け」など様々な手法を用いて、視覚的に識別しやすいよう編集上の工夫を凝らしています。
次回は、住所で見かける「地先」や「地内」といった表記をはじめ、港や湖沼にある「水面の住所」、各地に存在する「○○区」が付く町名など、行政の運用と工夫から生まれた特殊な住所の表し方について詳しく解説します。