コラム

地図の雑学|深川森下 小名木川・六間堀跡(東京都)~江戸の発展を支えた水路のポリゴン~

MAPPLE法務局地図ビューアで見つけた気になる筆
マップルラボで公開している MAPPLE 法務局地図ビューア。全国の登記所備付地図データをマップルのベクトルタイル上に地図展開し、筆(土地)情報や形状を確認することができます。今回、MAPPLE 法務局地図ビューア(地図)を使って全国で見つけた気になる筆とその土地にまつわる話を紹介します。

◆No.59 深川森下 小名木川・六間堀跡(東京都)~江戸の発展を支えた水路のポリゴン~

この場所をMAPPLE法務局地図ビューアで見てみる

江東区常盤は江戸時代の俳人・松尾芭蕉が暮らしていた芭蕉庵があった場所として知られています。隅田川と小名木川が合流する付近には、深川芭蕉庵跡の石碑が建つ「芭蕉稲荷神社」や芭蕉像がある「芭蕉庵史跡展望庭園」、芭蕉に関する資料が展示されている「芭蕉記念館」があり、多くの人が訪れています。

芭蕉稲荷神社

芭蕉庵史跡展望庭園

地図で芭蕉庵史跡展望庭園付近を見ると、不思議なポリゴンを見つけることができます。それは、庭園の前を流れる小名木川と隅田川の「水」のポリゴンです。このポリゴンを見ると、萬年橋の先に突起した部分(〇で囲んだ部分)まで「水」のポリゴンとなっています。
しかし、地図や空中写真では、この突起した部分は陸地になっています。では、この突起部分の「水」を示すポリゴンはいったい何を意味しているのでしょうか。実はこの「水」を示すポリゴンから、水運で栄えた「江戸」の姿を垣間見ることができるのです。

「〇」の部分が「水」のポリゴン

小名木川は全長約5㎞で、隅田川と旧中川を一直線で結ぶ人工の運河です。小名木川の歴史は古く、徳川家康が関東へ入封し、江戸城を中心とした城下町の建設に合わせて、小名木川の開削に着手したといわれています。当時、千葉県の行徳では製塩が盛んにおこなわれており、徳川家康は行徳の塩を江戸城下へ運ぶために、船が往来できる水路を必要としていました。

隅田川と荒川を結ぶ「小名木川」

江戸の街が発展し、巨大都市を形成するようになると、江戸の人々の生活を支えるために、大量の米や塩などの生活物資が必要となりました。そこで、全国各地から大量の生活必需品を船で江戸に運ぶ際に利用されたのが小名木川でした。

小名木川

小名木川は、江戸の生活を支える重要な水路としての役割を担っていましたが、その周辺にも大きな影響を与えました。水路沿いにあった深川村は、干拓によって新田開発された地といわれています。干拓の際、小名木川は排水路としての役割を果たしました。

深川発祥の地とされる「深川神明宮」

また、深川村の開拓時には、小名木川より堅川へ向けて水路が開かれたとされています。これらの水路は「五間堀」や「六間堀」と呼ばれ、周辺に住む人々にとって生活に欠かせない水路になりました。現在、これらの堀は埋め立てられ、公園や住宅、道路などに姿を変えていますが、公園の名前や路地などに、当時の痕跡を見つけることができます。

五間堀跡にある五間堀公園

六間堀跡の道(八名川公園付近)

さて、八名川公園にある六間堀の案内板に記されているとおり、六間堀の跡をたどって進んでいくと、小名木川に突き当たります。この場所は、最初に紹介した「水」を示すポリゴンの位置にあたります。六間堀はその名のとおり、六間(10.8m)の幅を持つ堀でした。そこで「水」のポリゴンの横幅をMAPPLE法務局地図ビューアに搭載されている距離計測機能で測定したところ、おおよそ11mの幅であることがわかりました。

赤い丸の部分が小名木川と六間堀の合流地点

このことから「水」を示すポリゴンは、六間堀が流れていた時の名残であると考えられます。六間堀は埋め立てられて陸地になりましたが、ポリゴンには六間堀が流れていた時代の姿が残されています。このポリゴンを通じて、江戸の発展を支えた小名木川と、人々の生活に利用されていた六間堀の歴史を垣間見ることができます。

出典:
国土地理院ウェブサイト「地理院地図(電子国土Web)データ」(国土地理院)をもとに加工して作成
「登記所備付データ」(法務省)を加工して作成

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