MAPPLE法務局地図ビューアで見つけた気になる筆
マップルラボで公開している MAPPLE 法務局地図ビューア。全国の登記所備付地図データをマップルのベクトルタイル上に地図展開し、筆(土地)情報や形状を確認することができます。今回、MAPPLE 法務局地図ビューア(地図)を使って全国で見つけた気になる筆とその土地にまつわる話を紹介します。
◆No.58 浅草・山谷堀公園(東京都)~猪牙船に揺られて吉原へ 今も残る山谷堀の筆~
浅草周辺の筆(土地)には、蔦屋重三郎が育った吉原と繋がりのあるものが点在しています。吉原には江戸幕府が公認した遊郭がありました。吉原遊郭は1657年(明暦3年)に起きた明暦の大火により、現在の地に移設しました。吉原では、非人道的な扱いを受けた遊女たちの悲劇的な話が多く残されている一方で、格式の高い店は、大名や文化人が通う社交場としての役割を果たしていました。高い教養を持つ花魁は教養や芸事に長けていたこともあり、花魁と遊ぶことは、江戸の男性にとって憧れだったようです。
吉原大門交差点にある「見返り柳」
当初は遊郭としての色合いが濃かった吉原ですが、蔦屋重三郎や喜多川歌麿らの活躍により、次第に遊女たちの艶やかな髪形や衣装が最先端のファッションとして注目されるようになりました。浮世絵師が描くこれらの作品は出版物として江戸市中に広まり、吉原は文化の発信地としての一面を持つようになりました。浮世絵・木版画の一種である「錦絵」もその一つで、吉原や近くにある待乳山は錦絵の題材として描かれています。
山谷堀公園にある猪牙船(ちょきぶね)の説明板
吉原を訪れる人の多くは陸路を利用していましたが、一部の人は「猪牙船(ちょきぶね)」と呼ばれる船を使い、水路から訪れていました。猪牙船は、船首が細長く尖った屋根のない軽量な小型船で、人や荷物を乗せて江戸の水路を行き来していました。猪牙船で吉原通いすることは、優雅で粋であり、一種のステータスであったようです。また、吉原へ行く水路の名前が「山谷堀(さんやぼり)」であったため、猪牙船は「山谷船(さんやぶね)」とも呼ばれていました。
山谷堀公園にある山谷堀の説明板
実は、この山谷堀は昭和時代まで水を湛えた水路として残っていました。1976年(昭和51年)頃から堀は暗渠化され、山谷堀公園として整備されました。それでも、水路の跡は筆(土地)に残されています。筆(土地)を見ると、隅田川から山谷堀公園に向かって「水」のポリゴンが延びており、ここが山谷堀の最下流地点であったことがわかります。周辺には錦絵の題材として描かれた大根まつりで知られる待乳山聖天があります。
待乳山聖天
待乳山は、隆起によって現れた霊山とされており、江戸時代には眺望の名所として多くの錦絵に描かれました。山谷堀公園の筆(土地)には無地番の筆(土地)が並んでおり、この筆(土地)を辿っていくと吉原に着きます。そのため、この筆(土地)がかつて山谷堀であったと考えられます。また、地図だけでなく、古い空中写真を見ると、無地番の筆(土地)の場所に河川が写っており、ここが山谷堀であったことが確認できます。
山谷堀は現在、山谷堀公園へと姿を変えましたが、公園には猪牙船のモニュメントが設置されています。公園を水路に見立て、筆(土地)と合わせて眺めると、猪牙船に揺られて吉原へ向かう人々の姿を偲ぶことができます。
山谷堀公園にある猪牙船のモニュメント
出典:「登記所備付データ」(法務省)を加工して作成
「地図の雑学」
「地図の雑学」は地図技術者・地図編集者が「地図の制作にまつわる話」や「地図を使った楽しみ方」を紹介するコーナーです。
> 蔦屋重三郎 所縁の地「吉原遊郭」についての記事はこちら
> これまでの記事一覧はこちら