コラム

地図の雑学|浅草・吉原(東京都)~蔦屋重三郎 所縁の地「吉原遊郭」の筆~

MAPPLE法務局地図ビューアで見つけた気になる筆
マップルラボで公開している MAPPLE 法務局地図ビューア。全国の登記所備付地図データをマップルのベクトルタイル上に地図展開し、筆(土地)情報や形状を確認することができます。今回、MAPPLE 法務局地図ビューア(地図)を使って全国で見つけた気になる筆とその土地にまつわる話を紹介します。

◆No.57 浅草・吉原(東京都)~蔦屋重三郎 所縁の地「吉原遊郭」の筆~

大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の主人公である蔦屋重三郎は、江戸時代中期に新吉原(現在の東京都台東区千束)で生まれました。蔦屋重三郎は江戸で本屋を開業し、出版業を発展させた人物です。彼が手掛けた出版物には喜多川歌麿(きたがわうたまろ)や東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)といった浮世絵師の本があります。また、山東京伝や滝沢馬琴など、多くの作家を発掘し、世に送り出しました。これらの活躍から、蔦屋重三郎は「江戸のメディア王」と言われています。

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新吉原とは吉原遊郭のことで、江戸幕府公認の遊郭でした。当初は日本橋に開設されましたが、1657年(明暦3年)に発生した明暦の大火で焼失し、その後、移転したことから「新吉原」と呼ばれました。新吉原(以下、吉原)は、「お歯黒溝(どぶ)」と呼ばれる堀が張り巡らされ、吉原大門が唯一の出入口であったため、外界から隔絶された空間となっていました。吉原では、多くの店が性の快楽を提供する場として営業しており、一方で、遊女たちが非人道的な扱いを受けるなどの悲劇的なエピソードも数多く残されています。

吉原遊郭の名所の一つであった「見返り柳(吉原大門交差点)」

吉原の各店には序列があり、格式の高い店は大名や文化人が集う社交場としての役割も果たしていました。遊女には、花魁(おいらん)・新造・禿(かむろ)といった身分制度で成り立っており、高い教養を持っていました。特に花魁は、舞踊、和歌、書道、茶道、華道、三味線、囲碁など、多岐にわたる教養や芸事に長けており、花魁と遊ぶことは、江戸の男性にとって憧れだったようです。

吉原遊郭とゆかりが深い吉原神社

その後、時代を経るにつれて、吉原を訪れる客層は武士から町人へと変化し、吉原は文化の発信地になっていきます。遊女の艶やかな髪形や衣装は、最先端のファッションとして江戸市中に広まり、浮世絵師によって描かれた花魁や遊女の浮世絵は、名作として後世に残ることになりました。

近くには「酉の市」で知られる鷲神社がある

出版物としては、蔦屋重三郎が編集者として関わった吉原遊郭の案内書「吉原細見」や、自身が出版した「一目千本(ひとめせんぼん)」があります。「一目千本」は、吉原遊郭に実在する花魁を花に見立てて紹介した本として、一部の妓楼(ぎろう)でのみ入手可能な希少な本として人気がありました。このように吉原は文化を発信する華やかな街の一面を持っていました。

改めて吉原の痕跡を探して地図を見ると、土手通りから碁盤の目状に整備された吉原に通じる道の中に、緩やかに曲がるポリゴンを見つけることができます。このポリゴンは「五十間道」と呼ばれる道のもので、吉原遊郭の痕跡の一つになっています。五十間道は吉原遊郭へ繋がる唯一の道であり、土手通りからはカーブを描く構造になっているため、外部から吉原の街を直接見ることができない形になっています。

このような道が設計された背景には、吉原遊郭ならではの事情があったようです。外界から隔絶されている吉原遊郭にとって、碁盤の目に整備された街並みが大通りから直接見えてしまうことは都合が悪かったようです。一説によれば、道を曲げることで、遊郭の街並みが見えなくなり、外界とは異なる空間を維持したと云われています。一見すると、何の変哲もないポリゴンに見えますが、実は吉原遊郭の歴史を今に伝えているポリゴンなのです。

出典:「登記所備付データ」(法務省)を加工して作成

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