コラム

地図の雑学|霞城公園・山形城跡(山形県)~筆から大規模な城郭の姿が読み取れる~

MAPPLE法務局地図ビューアで見つけた気になる筆
マップルラボで公開している MAPPLE 法務局地図ビューア。全国の登記所備付地図データをマップルのベクトルタイル上に地図展開し、筆(土地)情報や形状を確認することができます。今回、MAPPLE 法務局地図ビューア(地図)を使って全国で見つけた気になる筆とその土地にまつわる話を紹介します。

◆No.41 霞城公園・山形城跡(山形県)~筆から大規模な城郭の姿が読み取れる~

山形駅近くにある霞城公園(かじょうこうえん)は山形城跡を整備した公園です。東北の関ケ原と呼ばれる「慶長出羽合戦」において山形城の城郭が霞で隠れて見えなかったことから、別名「霞ケ城」とも呼ばれています。山形城は室町時代に斯波兼頼によって築城されたと云われ、のちに山形の基礎を築いた最上義光によって山形城の原型がつくられました。その後、鳥居忠政によって城郭の一部が整備されたと伝わっています。

霞城公園

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最上義光は山形藩57万石の初代藩主で、内政にも力を入れたことで知られています。山形城下では商工業の発展のために、市場町の設置や、職人を集め人材の育成に力を入れたと云われています。こうして、山形は東北屈指の商工業が揃った大都市として発展し、現在の山形市の基礎が作られました。

最上義光像

また、最上川を開削し整備することで舟運が発達し、日本海に面した庄内地方との行き来が容易となりました。庄内地方では新田開発が行われ、最上川の河口にあった酒田は商業都市へと発展しました。山形の特産品であった米や紅花などは、最上川を使って酒田へ運ばれ、寄港する北前船によって江戸や大坂へと運ばれていきました。一方、江戸や大坂からは木綿や砂糖、お茶、京文化が山形に届けられ、最上川の舟運は山形の繫栄に大きく寄与することとなりました。

霞城公園(山形城跡)

明治時代になると山形城は廃城となり、城内にあった建物は取り壊され、本丸の堀は埋められました。その後、山形城の跡地には陸軍の歩兵連隊の駐屯地が建設され、一部の堀などを残して城としての面影は失われましたが、終戦後には霞城公園として整備されました。現在では、霞城公園の整備事業において山形城を再現するための復原工事が進められています。すでに堀や土塁、門といった施設が復原され、見学することができます。

改めて霞城公園の筆(土地)を見ると、筆(土地)には山形城の本丸と二ノ丸、それらを囲うように堀と土塁の筆(土地)が設定されています。全国には城郭の形に沿った筆(土地)を見る場所は多くありますが、霞城公園の筆(土地)では、特に詳細な城の構造を見ることができます。赤く示した筆(土地)には、内桝形と呼ばれる形式の門や、本丸から張り出た桝形の姿が残されています。また、城内外へ通ずる道には、鍵型や丁字路といった城を防御するための構造も残されています。霞城公園では山形城の復原が進められていますが、筆(土地)からも大規模な城郭の姿を読み取ることができます。

出典:
国土地理院ウェブサイト「地理院地図(電子国土Web)データ」(国土地理院)をもとに加工して作成
「登記所備付データ」(法務省)を加工して作成

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