地図の雑学|広島城(広島県)~戦後復興のシンボルとなった城の筆~

2025年11月28日配信

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MAPPLE法務局地図ビューアで見つけた気になる筆
マップルラボで公開している MAPPLE 法務局地図ビューア。全国の登記所備付地図データをマップルのベクトルタイル上に地図展開し、筆(土地)情報や形状を確認することができます。今回、MAPPLE 法務局地図ビューア(地図)を使って全国で見つけた気になる筆とその土地にまつわる話を紹介します。

◆No.87  広島城(広島県)
~戦後復興のシンボルとなった城の筆~     

広島市にある広島城も、城郭の形が筆(土地)に反映されている城の一つです。広島城は毛利輝元によって築城されました。中国地方を治める毛利氏にとって、広島は政治・経済・交通の要となる地でした。しかし、徳川家康と石田三成が戦った関ケ原の戦いの際、西軍の総大将となった毛利輝元は戦いに敗れた後、周防・長門へと転封となり、広島を去ることになりました。

毛利輝元の後に広島へ入ったのが福島正則です。広島が近代城郭として整備されたのは、福島正則によるものです。城は本丸、二の丸、三の丸、堀などの再整備が行われ、広島城下には街道の整備と商業発展のための整備、さらに洪水に備えた治水事業が行われました。しかし、福島正則は武家諸法度の制定後に行われた広島城の整備について、幕府に届け出ることなく行ったことがきっかけとなり改易され、広島を去ることになりました。その後に広島に入ったのが浅野氏でしたが、福島氏が整備した制度や機構を補完する形で統治したため、広島城や城下町の大部分は福島正則の時代に完成していたと考えられています。

古地図_加工済み明治時代の広島 

明治時代に入り、広島城には県庁が設置されましたが、すぐに軍事施設が置かれ、城内の建物は解体などにより減少していきました。その後、軍の司令部や大本営が置かれたため、広島城は軍事拠点としての役割を担うようになります。また、城の周りの堀や運河も都市化により埋め立てられ、路面電車や道路などが建設されました。

34000777_00029外観復元された広島城天守 

昭和時代初めまで天守や門、櫓などが残っていましたが、1945年(昭和20年)に投下された原子爆弾によって、全て倒壊・焼失しました。戦後、広島城は石垣と堀を残すのみとなっていましたが、再建の機運の高まりと共に1958年(昭和33年)に広島城は戦後復興のシンボルとして、外観復元天守として再築されました。また、門や櫓についても戦前の写真や資料をもとに木造による復元が行われました。

34000777_00015広島城の門や櫓 

広島城の筆(土地)を見ると、本丸、二の丸、堀の形状が筆(土地)の形に反映されています。本丸には堀に面した天守と裏御門跡の筆(土地)、護国神社の筆(土地)があります。また、二の丸の筆(土地)は本丸の筆(土地)と同じ筆(土地)になっています。広島城の本丸は少し高台となっており、天守がある上段部分と護国神社がある下段部分に分かれています。その上段部分の筆(土地)を見ると無地番になっています。無地番には国有地などが該当することがあり、実際にこの場所の歴史を遡っていくと、広島大本営が設置されていた時期がありました。広島城で見られる無地番の土地は広島大本営が設置されていたことが影響しているのかもしれません。

広島城(筆)広島城の筆(土地)

そんな広島城ですが、現在一つの転機を迎えています。戦後、広島城では天守や門、櫓などを再建してきましたが、天守については20263月に「老朽化」と「耐震性」を理由に閉城します。その後、天守に対して耐震工事を行うか、木造復元するか2つの案が検討されています。特に木造復元に関しては、文化庁が定める厳しい基準があり、当時の規模や外観を忠実に再現できる「根拠」を持つことが必要です。広島城は原爆で倒壊する前の写真が存在し、詳細な資料も残されているため、木造復元の可能性を持つ貴重な城となっています。現在の天守に登れる期間は残りわずかとなりましたが、再び天守に登れる日もそう遠くないでしょう。 

出典:
「登記所備付データ」(法務省)を加工して作成
明治31年測図大正3年3月製版 5万分の1「廣嶋」 大日本帝国陸地測量部

 

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