MAPPLE法務局地図ビューアで見つけた気になる筆
マップルラボで公開している MAPPLE 法務局地図ビューア。全国の登記所備付地図データをマップルのベクトルタイル上に地図展開し、筆(土地)情報や形状を確認することができます。今回、MAPPLE 法務局地図ビューア(地図)を使って全国で見つけた気になる筆とその土地にまつわる話を紹介します。
◆No.31 群馬県庁(群馬県)~県庁に残る前橋城の筆~
群馬県前橋市は前橋城の城下町として繁栄し、のちに県庁所在地として群馬県庁が置かれています。全国には、城跡や城のすぐそばに県庁がある県が多くありますが、群馬県もそのひとつで、現在の群馬県庁の場所には前橋城がありました。現在の群馬県庁は、地上33階、地下3階の高層庁舎となっていますが、周辺には前橋城があったことを想起させる大手町という町名や城址の碑、土塁など遺構が点在しています。
群馬県庁
前橋城は戦国時代までは厩橋城と呼ばれ、上杉謙信や景勝に仕えた夏目舎人介定吉の子・定房が記した軍記「管窺武鑑」によって関東七名城と記されています。厩橋城は長尾景虎(上杉謙信)、北条氏政、滝川一益など戦国時代を代表する武将達が、この地を巡り何度も戦いを繰り広げました。また、徳川家康が厩橋城を「関東の華」であると言ったという伝承もあり、名城であったことが伺い知れます。
厩橋城は江戸時代に入ると近代城郭へと改修されていきます。また、地名を前橋と変えたのに合わせて前橋城と呼ばれるようになりました。前橋城は三層三階の天守があったとされていますが、すぐ西側を流れる利根川の氾濫によって城は浸食され、その都度修復されました。しかし、当時の城主であった松平家が川越へ転封するのを機に廃城になりました。
廃城になった前橋城ですが、幕末になると開国を迫る外国との関係をはじめ、江戸幕府を取り巻く状況を鑑み、前橋城の再築が行われました。その結果、前橋城は土手や堀が張り巡らされ、土塁には砲台が設置、当時の最先端の技術が結集した近代的な城が完成しました。しかし、明治時代に入ると各地で城の取り壊しが行われ、前橋城も他の城同様に取り壊され、再築された前橋城はわずかな期間のみ存在した幻の城となったのでした。
県庁に残る土塁
前橋城が取り壊された跡地には県庁が設置され、取り壊しを逃れた本丸御殿は庁舎として利用されました。現地には今の地図の上に城内図が重ねられた案内板があり、その城内図と筆(土地)を比べてみると、前橋城の本丸(赤色の範囲)、二ノ丸(黄色の範囲)の範囲が筆(土地)としても残っており、前橋城の当時の姿が筆(土地)にも残されていることがわかります。また、三ノ丸(紫の範囲)も一部についても当時の範囲が筆(土地)に反映されています。
現地の案内図
前橋城の痕跡が残る筆
現在、前橋城の本丸と二ノ丸の筆(土地)の場所には群馬県庁と昭和庁舎が建ち、三ノ丸の筆(土地)の場所には前橋地方裁判所が建っています。それぞれ近代的な建物に変わり「関東の華」と呼ばれた前橋城の面影はありませんが、今も昔も行政の中心地であり続けています。
出典:「登記所備付データ」(法務省)を加工して作成
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