MAPPLE法務局地図ビューアで見つけた気になる筆
マップルラボで公開している MAPPLE 法務局地図ビューア。全国の登記所備付地図データをマップルのベクトルタイル上に地図展開し、筆(土地)情報や形状を確認することができます。今回、MAPPLE 法務局地図ビューア(地図)を使って全国で見つけた気になる筆とその土地にまつわる話を紹介します。
◆No.20 宇治陵 32 号(京都府)~藤原道長と所縁がある宇治にある筆~
京都府宇治市には 10 円硬貨に描かれている鳳凰堂があることで知られている平等院があります。平等院は、寺になる前は藤原道長の別業(別荘)でしたが、1052 年(永承 7 年)に道長の子である藤原頼通によって開創しました。
鳳凰堂は、藤原頼通によって建立された阿弥陀堂で、建物が翼を広げた鳥のように見えることや、屋根に飾られている鳳凰より鳳凰堂と呼ばれるようになりました。池に浮かぶその姿は美しく、藤原氏が摂関政治を行っていた時代に建てられた今に残る貴重な建築物として国宝に指定されています。
宇治市は藤原氏と所縁のある地ですが、同じ宇治市には宇治陵と呼ばれる藤原氏にとって大切な場所があります。宇治陵とは古墳群の名称で、平安時代に栄華を極めた藤原道長をはじめ、藤原氏の多くの人が埋葬されました。しかし、のちに藤原摂関家が五摂家に分裂すると墓所は荒廃し、どの陵墓に誰が埋葬されたのか分からなくなりました。
明治時代に、藤原家より入内した天皇の后妃たちの陵墓を比定するための調査が行われ、宇治陵と名づけられました。宇治陵の陵墓は 1 号から 37 号までありますが、誰がどこに埋葬されているか分からないため、宇治陵 1 号を総拝所とし、藤原氏塋域の碑が建てられました。
そんな宇治陵では近年、藤原道長などの陵墓について場所が推定されつつあります。契機となったのは、藤原道長によって建立された浄妙寺の場所が明らかになったことです。浄妙寺は安倍晴明などによって建立する場所が定められたとされていますが、時代を経るにつれて衰退し、室町時代に焼失したとされています。
浄妙寺の位置については、不明のまま昭和時代を迎えますが、小学校の建設を機に発掘調査が行われ、浄妙寺の法華三昧堂(本堂)の遺構が発見されました。寺の位置が明らかになり、さらに調査が進むことで寺の姿が少しずつ明らかになり、藤原道長の陵墓の推定にも繋がりました。道長の子の藤原頼通が道長の墓を参った記録などから、道長の墓は、浄妙寺の近くであると考えられ、宇治陵 32 号ではないかと推定されています。
宇治陵 32 号の筆(土地)(図中の赤く示した一筆)は、一見すると周りの筆(土地)と同じくらいの大きさであるため、平安時代を代表する権力者のものとしては、にわかに信じがたい大きさの陵墓です。しかし、隣接する宇治陵 31 号の筆(土地)(図中のオレンジ色で示した筆)に代表するように、宇治陵にある多くの陵墓は同じような大きさとなっています。
1945~1950 年の空中写真と筆(土地)を重ねると、宇治陵 32 号(図中の赤い円)の周辺は農耕地となっていますが、陵墓付近は森のように見え、当時も陵墓が周辺と一線を画す場所であったことが想像できます。2020 年の空中写真では、周辺の農耕地は宅地化されましたが、宇治陵 32 号(図中の赤い円)は木々が生い茂る緑地として残っており、筆(土地)も現在の土地利用に合わせたものになっていることが分かります。同様に他の宇治陵の陵墓も、陵墓を避けるように森や畑であった場所が宅地化され、残された緑地が陵墓であることが分かります。
宇治陵は住宅地に溶け込むように点在しています。筆(土地)だけでは陵墓であるか判断することは難しいですが、空中写真と合わせて見ることで、この地域に陵墓があることが読み取れます。このように筆(土地)を活用し、他の資料と合わせ見ることで、その土地について、より深く知ることができます。
出典:
国土地理院ウェブサイト「地理院地図(電子国土 Web)データ」(国土地理院)をもとに加工して作成
「登記所備付データ」(法務省)を加工して作成
「地図の雑学」
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